ASMR動画からのSelf supervised learningで音源位置特定&アップミキシング(CVPR2020)

息抜き(?)に今年のCVPRのペーパーリストを眺めていたら、ASMR動画で面白いことをしている論文がありました。
Telling Left from Right: Learning Spatial Correspondence of Sight and Sound

入力はYouTubeから大量に落としてきたASMR動画の画像と音声(スペクトログラム)。データセットはYOUTUBE-ASMR-300Kという名前で公開されているので、無限にASMRを聴き続けられます。
YouTube-ASMR-300K | Zenodo

やっていることは、各動画の画像と音声をそれぞれ別々のCNN(画像ネットワークと音声ネットワーク)に突っ込んで、それらを元にタスクを解くこと。で、このタスクのアイデアが面白い。具体的には、入力の音源をランダムに左右反転していて、ニューラルネットには今回の入力が左右反転したものかどうかを解かせます。すると人間と同程度(80%程度)の正答率まで達せられるみたいです。

このタスクを考えついたのがこの論文の全てで、画像ネットワークと音声ネットワークのアテンションや特徴量を見てやると、画像中の音源に対応していたとのこと。加えて、モノラルからステレオへのアップミキシングもできます。

タスクを聞いた時点でこういう結果や応用先は予想できますし、手法的に何か新しいことをしているわけではありません。ただ、新しく急激に増加した資源に注目して(ASMR動画)、そのデータセットならではのタスクを考えつくというのはいいですね。このアイデアを考えついてデータセット集めてる時、面白かっただろうな。

あらためて教科書を読むのが面白い

色々あって、学部時代の所属先で秋から一つ講義をすることになりました。


本来なら前期に行われるはずの講義だったようですが、新型コロナの影響で急遽、秋以降に開講することに。そのイレギュラーのおかげというべきか、ちょうど自分が帰国しているタイミングと重なったので、やってみることにしました。全13回の講義が全てオンラインなのは少し残念ですが、現地まで行かなくていいのはある意味助かります。

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ここではありません


ここ数年の同じ講義のシラバスをながめていると、どの教員もほぼ同じ経歴です。どなたも学部から大学院まで同じ大学、同じ専攻。情報科学で博士号を取った教員が担当した実績はなさそうです。大学全体でも初めてかも。自分が担当するのが少し不思議ではありますが、これも時代の変化なのかもしれません。


とはいえ専門に関わる講義をするのは初めてで、標準的な講義を受けた経験もありません。はりきって自分なりの講義を、みたいに突っ込んで自滅するのを避けるため、ひさびさに論文以外の教科書を読んで分野の復習をしています。今のところ以下の本を読んだので、一行感想でも。他にも面白い本をさがしてます。


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思っていたよりもガッツリ計算論的神経科学の入門書。精神疾患について人類がわかっていることは少ないということがわかります。

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この切り口でまとめてくれている貴重な教科書。美感について人類がわかっていることは少ないということがわかります。

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分野全体を簡潔にカバーしています。最初に読むと簡潔すぎるかもしれませんが、講義の副読本としてはいい気がする。人間心理について人類がわかっていることは少ないということがわかります。


自分の興味は、理学や認知科学よりも工学や情報科学に強く寄っています。いわゆる神経科学者や心理学者とは、興味の方向や面白いと思うものが少しちがう。なので論文を書くために必要な知識は、それこそ論文や研究発表でのつまみ食いによってためてきました。そんな状態で改めて教科書を読んでみると、知識が色々整理され、思いのほかためになりました。そのわりにはだいぶ雑な感想……。

プロ棋士の脳

時勢柄、気を抜くと無限にAbema TVを眺めてしまう日々です。将棋を最後に打ったのはおそらく小学生の頃ですが、棋士が好きでよくインタビューや実況解説を見ています(つまり観る将)。



さて、将棋の棋士に焦点を当てた自然科学の研究はどれぐらいあるのか。

shogi - Search Results - PubMed

自然科学の主要な雑誌はほぼ引っかかるPubMedで"shogi"というキーワードで検索してみると、ヒット数は25件と予想通り少ない。大半が日本からの研究です。しかも25件のうちいくつかは、Shogi氏による将棋とは全く関係ない研究。

これがチェスだと将棋の100倍、2000件超引っかかります。研究の動機が、先読みに関する脳活動やら、完全情報ゲームのプロとアマとの比較やらをしたいというものなら、わざわざ(世界的には)マイナーな将棋を使う必要がないのでこの状況は必然かと思います。




少ないながらも、将棋に関する有名な研究はいくつかあります。以下の二つは理研の田中先生の研究です。

science.sciencemag.org
www.nature.com

一つ目のScienceの研究はプロとアマの比較、二つ目のNature Neuroscienceの研究はプロ級の人に限定した研究ですが、特定のシチュエーション("次の一手"を考える時や、受け攻めどちらでいくかを決める時)でどのような脳部位が活動しているのかを明らかにしています。藤井伝説がまだ始まったばかりの頃(今もそうなのかもしれませんが)に発表されたものなので、今発表してたら国内の話題度は段違いだったかも。(ちなみに二つ目の研究に関しては自分のボスがコメントを書いてます:Divide and conquer: strategic decision areas | Nature Neuroscience




棋士にしろ芸術家にしろ、異才の脳を覗くというコンセプトにはロマンを感じます。一方で「脳のどこが関係してそう」というのがわかったところで、何か応用にすぐ活かせるかというとそうではなく、実際は物凄く遠い話。十年後ぐらいには、このギャップがもう少しは埋まっていればいいんですが。



ちなみに自分は藤井聡太(現棋聖)はもちろんですけど、自分は永瀬拓矢(現二冠)や佐々木勇気(現七段)も人間味があって好きです。もちろん彼らも天才なのですが「天才達が死ぬほど努力をして超天才に挑む」というシチュエーションが自分にとって鉄板なのかも。

深層学習を認知神経科学にどう使うか問題

別にどう使っても使わなくてもいいしそれは研究上重要な問題ではないのですが(いきなりタイトルの否定から入る)、一方で新しいもの好きとしてはこういう話を追うのは楽しいものです。研究者には新しい物好きが多いので、認知神経科学のための深層学習(あるいは一般に人工ニューラルネットワーク)の使い方について提案・批判をするレビューはたくさん出ています。

Neuroscience-Inspired Artificial Intelligence - ScienceDirect
Direct Fit to Nature: An Evolutionary Perspective on Biological and Artificial Neural Networks - ScienceDirect
[1903.01458] Deep Learning for Cognitive Neuroscience
Neural network models and deep learning - ScienceDirect
[2006.01001] Artificial neural networks for neuroscientists: A primer
[2005.02181] A neural network walks into a lab: towards using deep nets as models for human behavior
A critique of pure learning and what artificial neural networks can learn from animal brains | Nature Communications

他にも沢山あると思いますが、ここ最近に有名どころから出てきて、自分がパッと思い出せるものだけでもこれだけあります。今まさに研究で使っているわけではないのでもはや追っていられないな、という感じなのですが、こういう論文は

  • すぐ読める
  • 知らない話題なので興味がある
  • 未成熟なのでツッコミどころが沢山ある

と(一部語弊もありますが)ランチネタとしての好条件が勢揃いです。実際、定期的に話題に上がっていました。個人的には、深層学習を認知神経科学で使う研究はおおむね「翻訳機」、「柔軟なモデル」、「シミュレータ」のどれかとして使われていると整理しています。

新発見の裏に新技術があることは多々あります。武器の選択肢が多いことは、その役割について整理できていれば悪いことではないでしょう。

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まず翻訳機。これは具体的には、別のデータで訓練した深層学習器を特徴量の抽出器として使うケースを想定しています。個人的には、一番上手くいっているのがこの使い方だと思います。古典的な抽出手法よりも豊富、階層的、そしてある程度は解釈可能な特徴量が抽出できます。翻訳の仕方もいろいろあって、脳活動の翻訳という使い方では、単純に中間層と脳活動との間に有意な線形の関係があるか見てみたり(これとか、 これ)、生成モデル(VAEやGAN)の中間層と脳活動との対応を取ってやって刺激再構成に使ってやったり()。

動画()や画像のラベリングに使って、それを説明変数に使うというのも(最終層も中間層の中の一番奥だと考えれば)、広義には(人間の代わりに翻訳してもらうという意味で)含まれると思います。

この系統の研究は適用するドメインや対応の取り方を変えた研究がめちゃくちゃ沢山あって、これからもどんどん出てくるのでは。

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次に、柔軟なモデル。こちらは、深層学習器を自分のデータセットで訓練してやるケースを想定しています。普通に情報系の研究で使う場合はこのケースが大半ではないでしょうか。

fMRIだとある程度サンプル数のあるデータセットも出てきたので、最近よく見るようになりました。つい先日Kaggleでもコンペがありましたが、きっと上位の人たちは深層学習も試されたのでしょうか?(URL)特にこのコンペの主催者たちも含めて、一部のグループが積極的に取り組んでいるイメージです()。ただ、一般画像や音声などに比べると現状のデータセットではそこまで精度向上しないという報告も()。

予測精度の向上とは別のモチベーションもあります。深層学習はアーキテクチャを柔軟に変えられるので、それを活かして複数のモデルを適用して、脳の情報表現に関する仮説を検証するという使い方()。使いやすいライブラリが沢山あるので、気軽に異なるモデルを試せるのはいいところかなと思います。個人的には、この使い方は今後増えていきそうな気がしてます。

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最後に、シミュレータ。

例えば何か適当なタスクを解かせて、その挙動や神経表現と、実際の脳との相同性を探るような使い方がされます。チャレンジしてみたっていう研究はかなり沢山出てるのですが、未開の領域感も大きい。そもそも人間並みに解ける深層学習を用意するのも大変だし、どのレベルで相同性を見ればいいのか自由度が大きすぎるし、それがどれだけ生物っぽいのかの議論も全然自明ではない(これとか、これ)。最初にあげたレビューの中にも、この辺の問題について議論している論文も結構あります。スパイキングニューラルネットワークからいわゆる今風の(DeepMind的な)深層学習論文まで、たくさんの人たちがチャレンジしてきた普遍的なテーマだと思いますし、やりたい研究者は多いと思うんですが、なんとなく需給ギャップ(?)が大きいテーマという印象です。

他にも、動物と違って気軽に実験できるシミュレータとして使うケースがあります。例えば、考えてみた学習原理をまた別の実験系で実証してみる的な使い方()。深層学習が人と似ているかどうかはさておき、深層学習でもやっぱり似たような現象が観測された(だから普遍的な学習原理だ)みたいな主張に使ってる感じです。

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ここまであげたものはどれも方向的には「深層学習を認知神経科学の研究に活かす」という方向です。逆に「認知神経科学を深層学習の研究に活かす」みたいな研究も認知神経科学者側的にはやりたがっている人は多い印象ですが、これも需給ギャップが大きいテーマという印象。もちろんCNNが人にインスパイアされてるだとか、LSTMもAttentionもIntrinsic motivationも人にインスパイアされたものだ、、、みたいなことは言えると思うんですけど、わりとなんでも言えちゃうんじゃないかとか、ちょっと口軽く言えない感じはあります。


まとめが多くて追っていられないと書きつつ、またつまらぬまとめを書いてしまったので、こんなところで。他の整理の仕方だと、Marr的に「計算理論・表現とアルゴリズム・インプリメンテーション」とレベル分けした時にどのレベルの仮説を検証しようとしてるか、みたいな感じで整理することも出来るのかも。個人的にはそちらはあまり直感的じゃないので、こんな感じに整理してみました。

オードリー・タンと天才と意識

最近、研究と関係ないエッセイ的な記事ばかり書いていますが、明らかにリアルでのコミュニケーション量が激減しているのが原因な気がします。本当はもっとカッチリしたフォーマットで、面白い論文やらを紹介した方がいいとは思うのですが。


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大学の警戒レベルが少し下がり、ようやく初(リアル)出勤しました。二年ぶりの本郷キャンパスでしたが、まだ学外の人は入校できず、学内関係者の出勤も制限されているのでキャンパス内はガラガラです。
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そんなわけで久しぶりの通勤中に、家だと開かないPodcastアプリを久しぶりに開くと、Rebuild.fmのゲストがなんとオードリー・タン。
rebuild.fm
彼女はコンピュータサイエンス業界の有名人で、Wikipedia記事(URL)を見ればわかるとおり、いわゆる天才。いまは台湾政府でデジタル担当の政務委員をしています。こういう規格外の人が、いかにも堅そうな行政に関わっているのはそれ自体興味深いことです。

Podcastの前半部分は台湾のコロナ対策についてで、それもまあ面白かったんですが、自分としては後半のキャリアについての話の方が刺さりました。極めて高いITの専門性を持つ人間が行政とどう関わっていくか、プログラミング教育をどう進めるべきか、などの話を世界でも数少ない実践者の口から聞けるのは貴重だと思います。


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ところでこのオードリーは14歳で中学を中退しています。自分は学問でも芸術でもスポーツでも、「天才」と言われている人のことを調べるのが昔から好きです。そんな天才オタク的には、この「中学を中退」という言葉には刺さる響きがあります。彼女が中学を中退した年齢で、自分は田舎の公立中学に普通に通学、しかも成績はギリギリでオール3に届かないぐらいというザ・平凡という感じの人間だったので、この彼我の差には眼がくらみます。

というか、自分の容赦ない凡庸さと向き合うために、天才の頭の中に興味があるのかも。経験上、蓋を開けてみるとそういうすごい人たちは結局、周囲よりも圧倒的に努力し続けている人でもあります。で、そういうのを見て知って、さらに憧憬が高まっていくことに。


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Podcast繋がりで、認知神経科学界隈でこのYoutube動画についての言及を偶然見かけて、作業中に垂れ流しで聴いてみました。
www.youtube.com
編集が入っていないのと司会者がいないのとで、Rebuildに比べてかなりとっ散らかった居酒屋談義です。なので意識の研究に関する知識がある人以外は面白くないと思うのですが、個人的には面白く聴けました。

確かにとっ散らかった居酒屋談義ではあるのですが、自分はこういうコンテンツがわりと好きです。

実際の人間の頭の中は、このYoutube動画みたいなとっ散らかっているものだと思います。もちろん、それをそのまま垂れ流されると情報の受け手的には非効率すぎるので、カッチリと整理した後の情報が本や論文という形で発表されています。それがまさに情報の吸収効率を最大限に高めるわけですが、一方で、こういう生の未整理な情報にそのまま触れるというのも、整理された後には消えてしまう何かが得られている気がします。仕事に活きそうな何かが。……というのは仕事に集中できずに動画を垂れ流している言い訳で、そんなの気のせい、仕事に直接活きるものなんて得られない、というのが実態でしょう。

せいぜい、自分以外にも似たような問題に興味がある人がいるんだなとか、こういう人はこういうことで悩んでるんだなみたいな共感とか、そういう類いの経験が得られるぐらいでしょうか。

いや、でも、それが一番重要なのかも。

もちろん、何にとって重要かはわからないし、裏付けもないけれど。

帰国とクリエイティブと美しさ

ゴーストタウンと化したオックスフォードから、ほぼ無人のヒースロー空港へと行き、CAさんと乗客がほぼ同数の飛行機に搭乗。そこから数週間の隔離を経て、数日前からようやく新居でテレワーク生活をはじめました。大学に行ける可能性も出てきたので、結局本郷の徒歩圏内に住むことに。

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イギリス上空

隔離期間中は、重めの締め切りがあったのに加え、並行して家探しや引越しをする必要があったため、前回書いたようなのんびりと思索にふける時間は全くありませんでした。街はすでに人であふれていますし、ウィズコロナ・アフターコロナとか言っても、結局いろいろなモノの背中を少し押しただけになるのかも。とはいえ、モノによってはその背中のひと押しがバカになりません。数ヶ月間のロックダウンは間違いなく記憶に残る出来事となりました。



そんなわけで仕事も生活もひと段落しましたが、その間の積み残しがたくさんあるので今後はそちらを消化していく感じになりそうです。

もちろん積み残しの消化だけでなく、東京で新たに取り組む研究もあります。これは今までとは少し違う、芸術寄りの研究です。"少し"と言うにはちょっと苦しいぐらい"かなり"違いますが、いちおう自分の中では繋がりがあります。

というのも、大学院時代の後半から今まで、ちょうど五年ぐらい絵・音楽・文章に対してAIを適用する案件をちまちま続けてきました(カッコよく言うとクリエイティブ x AIに関する個人プロジェクト)。意識していませんでしたが、結果的に毎年違う企業と一緒に仕事をしていて、振り返ると自分の中でそれなりに歴史のあるサブプロジェクトに。どの仕事もわりと楽しんでやってきましたが、メインの研究との繋がりが全く無かったのが気になっていたのも事実。他人から、「なんでそんなことやってるの」とたずねられた時、「楽しいから」としか言えず困るところもありました。

それがこうして研究と繋がってくるのは、何やら不思議な気持ちです。もちろん研究なので失敗する可能性も高く、今後どう転ぶかは全く読めません。



芸術を真面目に研究として扱うとなると、「美」とは何か、という問題から避けることができません。自分は「美しい」なんて言葉を日常でそうそう使いませんが、「カッコいい」ぐらいならわりと使いますし、両者の本質はそう違わない気がします。

で、そもそも美しいとは、カッコいいとは何なのか。

客観的な定義としては、「歴史的に美しい、カッコいいと言われてきたものがそうなのだ」という考えがありそうです。ただ、これはあまりにも実感が伴わない。自分が何かをカッコいいと言う時、その歴史的な意義をかえりみて客観的に述べようとしている感じは一ミリもしません。それよりも、美しいやカッコいいと言う言葉はその人の感情のある側面をとらえたものであり、ひたすら主観的に使われるものだ、という説明の方がはるかにしっくりきます。

じゃあ、美しい・カッコいいなんてものはどこまでも主観的で、個人間、もっと言うなら異なる個人の脳内で何も共有されていないのか?美しさやカッコよさについて語り合うコミュニケーションは全くのナンセンスなのか?というのもやはり実感が伴わない。さすがに少しは人類間で共有されている何かがありそう、というよりあって欲しい、という気持ちになります。

僕は脳の研究をしているので、結局のところここで問題になるのは、ある言葉に対応する脳活動が自分と他人で同じなのか、という問題だと考えます。

ここで残念なのが、人間の感情についてはマジでわからないことだらけだということです。感情の脳表現についての論文を書いたことがあるのでその時に勉強したのですが、何気なく使っている「嬉しさ」や「不安」といったレベルの感情でも、いったいそれはどういう脳活動なのか、他人と自分で同じなのか、ほとんどわかっていません。

面白いのは、こんなにも何もわかっていないにも関わらず、自分たちは日常的に「キレイだね」とか「カッコいい人間になりたい」とか、あたかも共通理解があるかのようにこれらの言葉を使うことです。何もわかっていない感情について述べているのであれば、これらのコミュニケーションに実質的な意味は何もないことになってしまいます。こんなにも何もわかっていないのに、何かを好きだとか嫌いだとか、自分たちはわりと気軽に使います。誰かが何かをした動機を一言の単語に帰着させたり、平気でします。

もしかしたら、美しいとかカッコいいとかいう感情は、ある種の生理反応を指し示す客観的な言葉として使われているのかもしれません。たとえば平野啓一郎の『「カッコいい」とは何か』では「カッコいい」と「シビれる」がよく似た使われ方をされていると書かれています(体感主義と言っています)。「シビれる」とは、自分たちの多くが知っているあの「シビれる」反応です。なるほど。でも、同じ生理現象が同じ神経活動に本当に対応しているのでしょうか。個人間はもちろんのこと、同一個人内でさえ怪しい。実はこの話は脳科学ではわりと長い歴史があって、論争が続いています。やっぱり全然わかっていない。



なんだか話がまとまらなくなってきましたが、とにかく、こんなに自分たちが日常的に使って、感じている美しさやカッコよさについて、自分たち(少なくとも僕は)は何も知らない。

まとまらないついでに更に発散させると、こうした美しさやカッコよさは、倫理観とも繋がっていそうです。たとえば、「正義」や「ただしさ」とカッコよさはかなり関係が深そう。


…もしかしたら、これらを明らかにするとすごい影響が大きい研究になるのかもしれない。明らかにしたら教科書が変わるかも。やはりこれは面白い研究テーマで、解明する価値があるのでは?

ここで自分のことを振り返ると、明らかに自分がカッコいいと思う人物像は変わり続けています。スポーツ選手や芸能人がそうだった時もあれば、世界を飛び回るビジネスマンがそうだった時も。今カッコいいと思うのは、Twitterにたくさんいる(ように見える)「自分は何もわからない」だとか「にゃーん」だとか言っている凄腕のエンジニアや研究者。彼らは自分の知性とその限界を真摯に把握した上でそういう言葉を使う、揺るぎない知性の持ち主であり、まさに彼らこそかっこいい。自分も負けぬよう研鑽を積まなくてはいけない。



はて、ではなぜ影響が大きい研究をしたいのだろう。それが一体なんなのだろう。

知性があったらなんなのだろう。そもそも知性のことだって自分たちは何一つわかっていないのに、なぜこんなにも堂々と彼らの知性が揺るぎないだなんて言葉を使えるんだろう。

それらが、美しいから?

シビれて、カッコいいと思うから?

そんなの無意味だって自分で書いているのに?

コロナと創作と研究

イギリスではもう一ヶ月以上、ロックダウンが続いています。最近は日も長くなり昼間は暖かく、とても気持ちのいい天気が続いているのですが、外を歩いていても人はまばらです。近くの大きなスーパーマーケットは、同時に十人以上の人が中に入れません。一定の間隔をとって店の外で並ぶ状態が続いています。バーもカフェも定食屋も、当然閉店。オフィスは閉鎖され通常は一人も中に入れず、全員完全に自宅勤務です。

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家の前の風景
普段のミーティングは全てMicrosoft Teamsでおこなわれています。全員近所に住んでいるのに、全く顔を合わせません。日本語ならまだしも、英語だと自分にはこれは結構辛い。この二年間顔を合わせてミーティングをしてきた蓄積があるのと、研究がすでに終盤フェーズに入っているのでまだなんとかなっています。もしこれが研究初期で、今後の方向性を固めていかなければいけない、みたいな状態だったら辛かったはず。

オックスフォード大学では、収入減が見込まれる中での既存の雇用維持策として、今年は完全に新規雇用を凍結しています。自分はオックスフォードはこの春で終わり、次はスタンフォードに行く予定でした。スタンフォードも、新規雇用を凍結しています。僕は幸い自分のフェローシップで行くので影響は受けませんが、今の状況でアメリカに行くのは無謀、というか行ってもどうせ完全テレワークなので、リスクだけが高くて行く意味がありません。なので、一時的に日本に滞在することにしました。しばらくまた東大で研究をすることになります。落ち着いた頃にアメリカに行く予定ですが、はたして落ち着くのか。

今は東大も完全テレワークなので、住まいをどこにするか悩んでいるところです。もし自粛模様やテレワークが今後も長く続くなら、都心から離れた広い家で落ち着いて仕事をするのが絶対にいい。もしかすると、世界に誇る東京都心の人口集中はこんな風にして解消されるのかも。今はまだ、自分のようなふわふわした人間の行動しか変えないと思います。でももしこれが長期化したら、人の流れが大きく変わり、街の風景も変わるはず。

このコロナウイルスは、100年後に振り返った時、どんな影響を世界に与えたことになってるんでしょうか。目下、自分の生活や仕事に関わる意思決定が、これまで経験したことがないレベルで変わっているように感じます。自分が生まれてからを荒っぽく振り返ると、ソ連崩壊、911、東日本大震災、と10年ごとに何かしら歴史的事件が生じているように思います。でも、ここまで直接的・大規模・長期的に生活を変化させた事象はなかなかないのでは。まだまだウイルスの全貌はわかっていません。免疫獲得についての詳細や、ワクチンがいつ開発・普及するかも、全く不明。何か言うには時期尚早もいいところですが、色々と考えてしまいます。

自分の研究分野は治療法解決に役立てられそうにないので、今はただ家で大人しくしているだけです。といっても、実際のところ自分の生活は殆ど変わっていません。もともと仕事も趣味もインドア・自宅派なので、むしろ飲み会やらなにやらが無くなりむしろホッとしている部分もあるぐらいです。こういう風に思っている人は、世の中に実はたくさんいるのではないか、という気はします。少なくとも僕が学生だったら、かつてないほどの幸せを感じているはず。

もちろん、人と話してないと死ぬ、という同僚も沢山います。そういう人たちのために、参加自由なテレビ電話会議がたくさん企画されていることには感心します。例えば、毎日11時からテレビ電話でコーヒー会議が開かれています。木曜日14時からは研究相談会議があり、金曜日12時からはフィッシュ&チップスを皆で食べる会があります。日本の古巣の知り合いに聞いていても、ここまでしているというのは全く聞きません。コミュニケーションをどれだけ重要視しているか、文化的な違いを改めて感じます。

一方で、家に一人でいても全く苦痛でなく、むしろいくらでも娯楽があるというタイプの人間も案外世の中にたくさんいると思います。動画や音楽はいくらでも転がっていて、小説だって無限に読める。交際費も交通費もかからないから、余計な出費はほぼ無い。気分転換がしたくなったら外に出て、空いている公園でも散歩すれば気持ちいい。ある種の人間にとっては、それだけで十分に楽しく生きられる時代です。

この機会に、なんで今まであんなにあくせく働いていたのか、という考えになる人も多いのではないか、なんて思ったりもします。つまり、今までしてきたことができなくなることによって、逆説的に、本当に何がしたいのか考えるようになる。忙しく働いている人は日頃の生活が忙しく、そんなことは考える暇はない。学生だったら、周りもみんなやっているし、惰性でなんとなく仕事を選ぶ。ただ、このように状況が変わった今、ハッとこうした問題に突き当たる人もいるんじゃないかと。

結局のところ実存の問題になるわけですが、実存の問題はとかく面倒です。普段は何のために生きているのか、何のために働いているのかなんて考えていられないし、それについて他人の考えを聞くなんて鬱陶しい。けれども、実際には多かれ少なかれ誰しもが直面する悩みであり、どこかで溜まっているものを吐き出しているはずです。自分にとっては、創作物に触れるというのは、そうした溜まったものと向き合う重要な機会の一つです。なんだかモヤモヤしている時に、触れるとなんだかスッキリする。

なんとなく、今の時代に実存と真正面に向き合い、表現するのが許されているのは創作現場か哲学者ぐらいだという気がしています。もしかすると、生活が一変したことをきっかけに、受け入れるだけでなく自分でも何か表現してみたい、と思う人が増えるかもしれません。ライブや舞台のような人を集める活動は厳しいので、音楽や絵、小説が有望でしょうか。哲学者になりたい人が増えるかどうかは怪しい。

ふと、研究を何かしらの形で発表するときもそんな気分だということに気づきました。研究はリーチする範囲が基本的に極小なので、上にあげたような一般創作と比べるのはおこがましいですが、自分が好き・面白いと思うものを問う、という意味では、満たされるものは近い。プログラムやWebサービスを作って公開するのも、似ているかもしれません。ただ、どちらも仕事でやるなら実利やインパクトをかなりの程度考えざるを得ないので、完全に趣味でやっているケースを除いたら、好き勝手やれるなんてことはなかなかないですが。とはいえ、部分的には満たされるものもありそう。

というか、何だってそうなのかも。だとしたらどうして、自分は今やっていることをやっているのだろう。