コロナと創作と研究

イギリスではもう一ヶ月以上、ロックダウンが続いています。最近は日も長くなり昼間は暖かく、とても気持ちのいい天気が続いているのですが、外を歩いていても人はまばらです。近くの大きなスーパーマーケットは、同時に十人以上の人が中に入れません。一定の間隔をとって店の外で並ぶ状態が続いています。バーもカフェも定食屋も、当然閉店。オフィスは閉鎖され通常は一人も中に入れず、全員完全に自宅勤務です。

f:id:tk_g:20200429062950j:plain
家の前の風景
普段のミーティングは全てMicrosoft Teamsでおこなわれています。全員近所に住んでいるのに、全く顔を合わせません。日本語ならまだしも、英語だと自分にはこれは結構辛い。この二年間顔を合わせてミーティングをしてきた蓄積があるのと、研究がすでに終盤フェーズに入っているのでまだなんとかなっています。もしこれが研究初期で、今後の方向性を固めていかなければいけない、みたいな状態だったら辛かったはず。

オックスフォード大学では、収入減が見込まれる中での既存の雇用維持策として、今年は完全に新規雇用を凍結しています。自分はオックスフォードはこの春で終わり、次はスタンフォードに行く予定でした。スタンフォードも、新規雇用を凍結しています。僕は幸い自分のフェローシップで行くので影響は受けませんが、今の状況でアメリカに行くのは無謀、というか行ってもどうせ完全テレワークなので、リスクだけが高くて行く意味がありません。なので、一時的に日本に滞在することにしました。しばらくまた東大で研究をすることになります。落ち着いた頃にアメリカに行く予定ですが、はたして落ち着くのか。

今は東大も完全テレワークなので、住まいをどこにするか悩んでいるところです。もし自粛模様やテレワークが今後も長く続くなら、都心から離れた広い家で落ち着いて仕事をするのが絶対にいい。もしかすると、世界に誇る東京都心の人口集中はこんな風にして解消されるのかも。今はまだ、自分のようなふわふわした人間の行動しか変えないと思います。でももしこれが長期化したら、人の流れが大きく変わり、街の風景も変わるはず。

このコロナウイルスは、100年後に振り返った時、どんな影響を世界に与えたことになってるんでしょうか。目下、自分の生活や仕事に関わる意思決定が、これまで経験したことがないレベルで変わっているように感じます。自分が生まれてからを荒っぽく振り返ると、ソ連崩壊、911、東日本大震災、と10年ごとに何かしら歴史的事件が生じているように思います。でも、ここまで直接的・大規模・長期的に生活を変化させた事象はなかなかないのでは。まだまだウイルスの全貌はわかっていません。免疫獲得についての詳細や、ワクチンがいつ開発・普及するかも、全く不明。何か言うには時期尚早もいいところですが、色々と考えてしまいます。

自分の研究分野は治療法解決に役立てられそうにないので、今はただ家で大人しくしているだけです。といっても、実際のところ自分の生活は殆ど変わっていません。もともと仕事も趣味もインドア・自宅派なので、むしろ飲み会やらなにやらが無くなりむしろホッとしている部分もあるぐらいです。こういう風に思っている人は、世の中に実はたくさんいるのではないか、という気はします。少なくとも僕が学生だったら、かつてないほどの幸せを感じているはず。

もちろん、人と話してないと死ぬ、という同僚も沢山います。そういう人たちのために、参加自由なテレビ電話会議がたくさん企画されていることには感心します。例えば、毎日11時からテレビ電話でコーヒー会議が開かれています。木曜日14時からは研究相談会議があり、金曜日12時からはフィッシュ&チップスを皆で食べる会があります。日本の古巣の知り合いに聞いていても、ここまでしているというのは全く聞きません。コミュニケーションをどれだけ重要視しているか、文化的な違いを改めて感じます。

一方で、家に一人でいても全く苦痛でなく、むしろいくらでも娯楽があるというタイプの人間も案外世の中にたくさんいると思います。動画や音楽はいくらでも転がっていて、小説だって無限に読める。交際費も交通費もかからないから、余計な出費はほぼ無い。気分転換がしたくなったら外に出て、空いている公園でも散歩すれば気持ちいい。ある種の人間にとっては、それだけで十分に楽しく生きられる時代です。

この機会に、なんで今まであんなにあくせく働いていたのか、という考えになる人も多いのではないか、なんて思ったりもします。つまり、今までしてきたことができなくなることによって、逆説的に、本当に何がしたいのか考えるようになる。忙しく働いている人は日頃の生活が忙しく、そんなことは考える暇はない。学生だったら、周りもみんなやっているし、惰性でなんとなく仕事を選ぶ。ただ、このように状況が変わった今、ハッとこうした問題に突き当たる人もいるんじゃないかと。

結局のところ実存の問題になるわけですが、実存の問題はとかく面倒です。普段は何のために生きているのか、何のために働いているのかなんて考えていられないし、それについて他人の考えを聞くなんて鬱陶しい。けれども、実際には多かれ少なかれ誰しもが直面する悩みであり、どこかで溜まっているものを吐き出しているはずです。自分にとっては、創作物に触れるというのは、そうした溜まったものと向き合う重要な機会の一つです。なんだかモヤモヤしている時に、触れるとなんだかスッキリする。

なんとなく、今の時代に実存と真正面に向き合い、表現するのが許されているのは創作現場か哲学者ぐらいだという気がしています。もしかすると、生活が一変したことをきっかけに、受け入れるだけでなく自分でも何か表現してみたい、と思う人が増えるかもしれません。ライブや舞台のような人を集める活動は厳しいので、音楽や絵、小説が有望でしょうか。哲学者になりたい人が増えるかどうかは怪しい。

ふと、研究を何かしらの形で発表するときもそんな気分だということに気づきました。研究はリーチする範囲が基本的に極小なので、上にあげたような一般創作と比べるのはおこがましいですが、自分が好き・面白いと思うものを問う、という意味では、満たされるものは近い。プログラムやWebサービスを作って公開するのも、似ているかもしれません。ただ、どちらも仕事でやるなら実利やインパクトをかなりの程度考えざるを得ないので、完全に趣味でやっているケースを除いたら、好き勝手やれるなんてことはなかなかないですが。とはいえ、部分的には満たされるものもありそう。

というか、何だってそうなのかも。だとしたらどうして、自分は今やっていることをやっているのだろう。