帰国とクリエイティブと美しさ

ゴーストタウンと化したオックスフォードから、ほぼ無人のヒースロー空港へと行き、CAさんと乗客がほぼ同数の飛行機に搭乗。そこから数週間の隔離を経て、数日前からようやく新居でテレワーク生活をはじめました。大学に行ける可能性も出てきたので、結局本郷の徒歩圏内に住むことに。

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イギリス上空

隔離期間中は、重めの締め切りがあったのに加え、並行して家探しや引越しをする必要があったため、前回書いたようなのんびりと思索にふける時間は全くありませんでした。街はすでに人であふれていますし、ウィズコロナ・アフターコロナとか言っても、結局いろいろなモノの背中を少し押しただけになるのかも。とはいえ、モノによってはその背中のひと押しがバカになりません。数ヶ月間のロックダウンは間違いなく記憶に残る出来事となりました。



そんなわけで仕事も生活もひと段落しましたが、その間の積み残しがたくさんあるので今後はそちらを消化していく感じになりそうです。

もちろん積み残しの消化だけでなく、東京で新たに取り組む研究もあります。これは今までとは少し違う、芸術寄りの研究です。"少し"と言うにはちょっと苦しいぐらい"かなり"違いますが、いちおう自分の中では繋がりがあります。

というのも、大学院時代の後半から今まで、ちょうど五年ぐらい絵・音楽・文章に対してAIを適用する案件をちまちま続けてきました(カッコよく言うとクリエイティブ x AIに関する個人プロジェクト)。意識していませんでしたが、結果的に毎年違う企業と一緒に仕事をしていて、振り返ると自分の中でそれなりに歴史のあるサブプロジェクトに。どの仕事もわりと楽しんでやってきましたが、メインの研究との繋がりが全く無かったのが気になっていたのも事実。他人から、「なんでそんなことやってるの」とたずねられた時、「楽しいから」としか言えず困るところもありました。

それがこうして研究と繋がってくるのは、何やら不思議な気持ちです。もちろん研究なので失敗する可能性も高く、今後どう転ぶかは全く読めません。



芸術を真面目に研究として扱うとなると、「美」とは何か、という問題から避けることができません。自分は「美しい」なんて言葉を日常でそうそう使いませんが、「カッコいい」ぐらいならわりと使いますし、両者の本質はそう違わない気がします。

で、そもそも美しいとは、カッコいいとは何なのか。

客観的な定義としては、「歴史的に美しい、カッコいいと言われてきたものがそうなのだ」という考えがありそうです。ただ、これはあまりにも実感が伴わない。自分が何かをカッコいいと言う時、その歴史的な意義をかえりみて客観的に述べようとしている感じは一ミリもしません。それよりも、美しいやカッコいいと言う言葉はその人の感情のある側面をとらえたものであり、ひたすら主観的に使われるものだ、という説明の方がはるかにしっくりきます。

じゃあ、美しい・カッコいいなんてものはどこまでも主観的で、個人間、もっと言うなら異なる個人の脳内で何も共有されていないのか?美しさやカッコよさについて語り合うコミュニケーションは全くのナンセンスなのか?というのもやはり実感が伴わない。さすがに少しは人類間で共有されている何かがありそう、というよりあって欲しい、という気持ちになります。

僕は脳の研究をしているので、結局のところここで問題になるのは、ある言葉に対応する脳活動が自分と他人で同じなのか、という問題だと考えます。

ここで残念なのが、人間の感情についてはマジでわからないことだらけだということです。感情の脳表現についての論文を書いたことがあるのでその時に勉強したのですが、何気なく使っている「嬉しさ」や「不安」といったレベルの感情でも、いったいそれはどういう脳活動なのか、他人と自分で同じなのか、ほとんどわかっていません。

面白いのは、こんなにも何もわかっていないにも関わらず、自分たちは日常的に「キレイだね」とか「カッコいい人間になりたい」とか、あたかも共通理解があるかのようにこれらの言葉を使うことです。何もわかっていない感情について述べているのであれば、これらのコミュニケーションに実質的な意味は何もないことになってしまいます。こんなにも何もわかっていないのに、何かを好きだとか嫌いだとか、自分たちはわりと気軽に使います。誰かが何かをした動機を一言の単語に帰着させたり、平気でします。

もしかしたら、美しいとかカッコいいとかいう感情は、ある種の生理反応を指し示す客観的な言葉として使われているのかもしれません。たとえば平野啓一郎の『「カッコいい」とは何か』では「カッコいい」と「シビれる」がよく似た使われ方をされていると書かれています(体感主義と言っています)。「シビれる」とは、自分たちの多くが知っているあの「シビれる」反応です。なるほど。でも、同じ生理現象が同じ神経活動に本当に対応しているのでしょうか。個人間はもちろんのこと、同一個人内でさえ怪しい。実はこの話は脳科学ではわりと長い歴史があって、論争が続いています。やっぱり全然わかっていない。



なんだか話がまとまらなくなってきましたが、とにかく、こんなに自分たちが日常的に使って、感じている美しさやカッコよさについて、自分たち(少なくとも僕は)は何も知らない。

まとまらないついでに更に発散させると、こうした美しさやカッコよさは、倫理観とも繋がっていそうです。たとえば、「正義」や「ただしさ」とカッコよさはかなり関係が深そう。


…もしかしたら、これらを明らかにするとすごい影響が大きい研究になるのかもしれない。明らかにしたら教科書が変わるかも。やはりこれは面白い研究テーマで、解明する価値があるのでは?

ここで自分のことを振り返ると、明らかに自分がカッコいいと思う人物像は変わり続けています。スポーツ選手や芸能人がそうだった時もあれば、世界を飛び回るビジネスマンがそうだった時も。今カッコいいと思うのは、Twitterにたくさんいる(ように見える)「自分は何もわからない」だとか「にゃーん」だとか言っている凄腕のエンジニアや研究者。彼らは自分の知性とその限界を真摯に把握した上でそういう言葉を使う、揺るぎない知性の持ち主であり、まさに彼らこそかっこいい。自分も負けぬよう研鑽を積まなくてはいけない。



はて、ではなぜ影響が大きい研究をしたいのだろう。それが一体なんなのだろう。

知性があったらなんなのだろう。そもそも知性のことだって自分たちは何一つわかっていないのに、なぜこんなにも堂々と彼らの知性が揺るぎないだなんて言葉を使えるんだろう。

それらが、美しいから?

シビれて、カッコいいと思うから?

そんなの無意味だって自分で書いているのに?