仮説があるとゴリラは見えない

以下の動画はわりと有名なので、多くの人が知っていると思います。以下、ネタバレを含むので、初見の人はまずは動画を観てから読み進めてもらえればと思います。

selective attention test


上の動画は、パスの回数を数えていると、堂々と横切るゴリラに気がつけないという、人間の「選択的注意能力」に関係した現象を示したものです。


さて、以下の記事でこの動画に関連した面白い実験が紹介されていました。

genomebiology.biomedcentral.com

この実験ではまず、学生を2グループに分けて、両グループに同じデータを渡します。このデータには1800人弱の男女のBMI値と、各人のある日の歩数という二つの数値が入っています。ここで重要なのが、片方のグループには検証すべき仮説を3つ与えた上で(例:歩数には男女に差がある、BMIと歩数には相関がある)、「その他なにか結論づけられることがあれば報告するように」という課題を与えます。一方で、そしてもう片方のグループには「データセットからどんな結論を出すか」とだけ尋ね、何も検証すべき仮説は与えませんでした。


さて、本題はここからです。実はこのデータ、二次元平面(BMIを縦軸、歩数を横軸)に描画するとゴリラの絵が浮かび上がってくる架空のデータです。この課題の真の目的は、上記2グループのうち、どちらのグループがより多くゴリラに気づいたか?ということなのです。


結果としては、仮説を与えられたグループよりも与えられなかったグループの方が、データに潜むゴリラの存在に気づくという結果になりました。上の記事ではこの実験結果を枕として、(一般に良しとされる)仮説駆動的な研究だけでなく、探索的な研究も新発見には重要であると論じています。






唐突に別の分野の話になりますが、機械学習には「仮説空間」という概念があります。


機械学習では、何か(例えば画像)と何か(例えばカテゴリラベル)の間にある関係性を探ろうとすることがあります。画像とカテゴリラベルの場合、真の関係性をきちんと捉えられれば高性能な画像認識をできて、ダメな場合は使えない画像認識モデルが出来上がります。ただ「真の」関係性は当然我々にはわかりませんし、その真の関係性をどうやったら見つけられるかもわかりません。なので、「おそらくこの基準で評価して性能を向上させていけば、真の関係性に近づくことができるだろう」という基準を考えます。その基準を目的関数とか呼美、この目的関数の数値を最適化することを学習といいます。


ただここで問題なのが、現実にデータは無限に存在しないこと。むしろ、少数しか存在しないことが大半です。そういう場合に何も考えずに広大な可能性から探索をする、例えばディープラーニングなんかを適用することがそれにあたるのですが、そうすると手持ちのデータに対して過剰に適応した極端な画像認識モデルになってしまいます。そこで登場するのが「正則化」という技術で、これは探索する空間をあらかじめ狭めておいてやることで、あまり手持ちのデータに偏りすぎないように外から制約を加えてあげることを意味します。ここで出てきた「探索する空間」のことを、「仮説空間」と呼び、その空間の中で探索された一つ一つの結果を「仮説」と呼びます。つまり学習とは、真の関係性に対する仮説を見つける作業なわけですね。そして、正則化はその探索空間をある程度狭めてやることに対応します。もちろんその狭め方にはいろいろなやり方があり、どう狭めるかはまさに事前の仮説に寄るところになります。


最初に出したゴリラの実験の話では、片方のグループにいくつかの検証すべき仮説を与えてあげました。この行為はもしかすると、正則化に相当しているのかもしれません。つまり、ゴリラが探索すべき仮説空間の外にいたのです。





ここでまた全然別の話題になります。


自分の人生における仮説空間は何なのだろうか、ということについて考えてみたいと思います。唐突に電波が漂ってきましたが、それでも、何かしらある分野で確立された枠組みを日常的な話題に適応してみるのはそう悪いことでもないでしょう。


仮説空間を考える前に問題となるのは、自分はどんな問題を解いているか。我々人間が調整できるのは究極的には自分の身体だけなので、ようするに「日々何をして過ごすか」を最適化する問題を解いていると考えられます。けれども、そもそもどんな関数を近似したいのかよくわからない。目的関数もよくわからない。正則化もよくわからない。ぜんぜんわからない。自分は雰囲気で人生をやっている。


…ということはなく、まあ何かしら目指して生きているわけです。そうでないと発散して狂人になるしかないですし。ここでいう何かしらとは、会社での出世だったり、競技での活躍であったり、金持ちだったり、「幸せな人生」だったり。そこにはまた何かしらの模範となるような人物像があることも多く、どうやったらそこに近づけるかが重要になるわけです。


抽象的に考えてもらちがあかないので、具体的なイベントで考えてみることにします。たとえば結婚や出産。これは正則化でしょうか。確かに、これらのイベントには人生を発散しにくくさせる効果がある気がします。でも、それ自体が目的関数に入っていて、達成したら報酬だと考える人がいてもいいわけですよね。





なんの正則化もかけないまま記事を書いているせいで、話題が発散してきました。



自分はエンタメが好きで、面白い物語に興味があります。そこからまわりまわって、人生がどうやったらいい物語になるのか、ということにも興味があります。では、いい物語とは何か。いい物語には主軸があります。無限の仮設空間をただ漂う名作はありません。


一方で、現実の人生の仮説空間は無限です。どうやったらその主軸が手に入るのか?


ここはいっそ思いっきり海の底まで潜って、息をひそめるのがいいのかもしれません。探索すべき次元を落として落として、一つの軸に集中する。

ここで、これまで人生の意味への問いについて述べてきたことの全体から結論を得ようとするとき、われわれは、この問いそのものの根本的な批判に到達する。それは、人生そのものの意味への問いは無意味である、ということである。なぜなら、もしその問いが漠然と人生「というもの一般」を指し、具体的な「各々の私の」実存を指していないならば、誤って立てられているからである。


フランクル「人間とは何か」

いや、そもそも人生には大なり小なりの制約が元々あるわけで、それに対して虚無感でも喪失感でもない何かを持って生きていけているのであれば、それはもう主軸となるものが見つかっているのかもしれない。つまり、人生はとっくに物語になっている。


ふつうの日常のなかに時折見つかる特別な感情は、実はその主軸の上に乗っかっていたのかもしれない。

われわれが、世界体験の本質的構造に立ちもどり、それを深く熟考しようとするならば、人生の意味への問いにある種のコペルニクス的転回を与えなければならない。すなわち、人生それ自身が人間に問いを立てているのである。人間が問うのではなく、むしろ人間は人生から問われているものであり、人生に答えねばならず、人生に責任を持たねばならないものなのである。


フランクル「人間とは何か」

ただどうも自分には、そう受け入れることに抵抗感があります。


それはうまく言語化できないけれど、なぜだか抵抗したい。


なんといっても、仮説があるとゴリラが見えない。